言い訳:書評について

ブログやネットに書かれた本に対する書評なり、感想なりを読むとうーん、何だかそういうことなのかなあって思うことはしょっちゅうです。個人の感じたことを自由に書けばいいし、誰だってそう認識しているはずなのに、気づけばどの本でも誰が読んでも似たような文章で、つまるところ紋切り型だということであり、言葉を変えて言うのなら既に存在している型に“私”なり“○○という作品”なりを代入しているように思えてはならないわけです。もちろん、それは本に限った話ではなく。最近、大名行列にも似た身振りで社会を大手を振って歩いている“推し”という言葉に、個人的にはいけ好かねぇ奴だなと視線を送ってみたりするのも、“推し”が尊いとか生きがいみたいなのにつながる関係性の記号であって、一方に、“私”や“俺”や“あてぃし”や“おいどん”を入力してもう一方に、“アイドル”や“深夜ラジオ”や“本”が入力されて式がいっちょ出来上がり、「はい、素晴らしいでしょ」みたいになっていて、わたしが返す言葉は「ええ、素晴らしいですね」に決まっているわけです。書くことや語ることは誰にも認められた民主主義的なものであっても、主観とかわたしだけの感性は信用出来ないと少なくともこの数年はずっと思感じています。書評の類は個性を控えることを意識した方が結果としてユニークなものになるんじゃないかとかそんなことを考えていた時期もあったと思います。しかし、次のような文章を読むと気も変わってきます。

 

私は最近は小説というのは感触を呼び起こすか、今ここであらたに感触を作り出すかするための形態であると感じている。(保坂和志 『ハレルヤ』あとがき)

 

思考は生き物だから常にあちこちに向かって蠢いていて、それがもうずっと前に自分や他人が考えたことの反復であることがほとんどです。極私的なことを書いていってその連鎖の果てに、わたしと本が組み合わさってできた機械が生成する未知の風景が広がっていたらいいなと思うのですが、それは理想論でもあり、試行錯誤の過程でもあり、言い訳でもあります。