「何でも問題になる」—青木淳悟『私のいない高校』について

自分が卒業文集にどんな文章を書いたか覚えていますか?わたしは高校では卒業文集がなかったのですが、中学生の時にああでもないこうでもないと苦心して最終的には半ば投げやりになって書いた文章が今でもふがいなさを宿しながら本棚の端に席を占めています。なぜ、自分の学生生活を文章化することがままならなかったかと言えば、例えば他の人の文章を読むと、陸上部で走り高跳びに情熱を注いだ彼女は最後の大会の背面跳びで見上げた雲一つない大空と続いて自分の耳に響く落ちてしまったバーの音に学校生活の思い出を託し、将来は社会の役に立つ人間になりたいという彼は最初はトラブル続きで苦労したものの最後は班のみんなで楽しむことの出来た修学旅行での学びを活かしていきたいと意気込んでいるわけで、ぼーっと生きているわたしにはそのような特権的瞬間はどうやら訪れなくて、あるいは見過ごしていて、その代わりという訳でもないのですが、放課後の部活の練習をさぼって教室で友人とだらだら喋っていたら、そこに同じく部活をさぼったサッカー部の男子たちが合流して、さらには委員会があったというあまり話したことがなかった女の子も教室を訪れて、その変な取り合わせのメンバーで他愛ない話をしていたら楽しくて気づいたら最終下校時間だったときの夕暮れの教室の風景とか、とにかく退屈だった地理の授業でクラスのみんなが睡魔と闘いながらもノート点検があるからと言って何とか黒板を写そうとする姿(その冬、地理教師は窓を開け冷気で生徒を寝させないようにして反感を買った)とか、別にそんなことする必要なんて一つもないのに新しく出来た友達と時間を合わせて毎朝一緒に登校した一時期とか、挙げればきりのないほどの取るに足らないような瞬間にこそわたしの学生生活があったような気がしてそういった一つ一つを描写したかったのですが、力量も文字数も全く足りなかったのです。

わたしが卒業文集で残したかったのは、学校生活の思い出や学びというよりは、教室や登下校や友人や教師にわたしが向けたまなざしだったのではないか、そのようなことを最近は考えたりもするわけです。そして、卒業文集を通して書くことの難しさと全身で向き合っていたであろうわたしに『私のいない高校』を手渡しやりたくもなってきます。それは、決して卒業文集の執筆に役立つということではありません。『私のいない高校』は教室の風景が沢山のそこにいる人たちやかつていた人たちのまなざしで構成された不安定な均衡のうえに存在する様が描かれていて、もう一度教室という空間を隅々まで眺めたいと思わせてくれるような作品なのです。

『私のいない高校』は実在の日誌(『アンネの日記 海外留学生受け入れ日記』)に依りながら書かれた小説で、ポルトガル語話者のカナダ人留学生ナタリーを受け入れた二年菊組の日々が一人称や視点人物を排除した文章で綴られています。この小説の特徴についてブログやレビューでは物語や主人公の不在が指摘されがちですが、わたしは実験性や既存の文学へのアンチテーゼといった評価につながるであろうそうした描かれていない欠如よりもこの小説に描かれているものに惹かれています。

上手に日本語を操る訳ではないナタリーのために、担任は教室に貼られた時間割とにらめっこをしながら、ナタリーの個別の時間割を考えます。もちろん、テストも個別の対応をしなくてはなりません。そこで担任はナタリーも参加した修学旅行をもとに「スクールトリップ」というテスト科目を設けることにします。以下はその様子に関する描写です。

温東先生とは家庭科の打ち合わせをするうち、いつしか修学旅行テストについての相談になっていた。そこでのやりとりから、例えば、旅行中の食事内容だとか部屋の様子についてだとか「何でも問題になる」として、当初担任の想定していた「旅行を通して地理や歴史を取り上げる」との出題案に色々といいアイデアがプラスされていった。(p.180)

ここでの「何でも問題になる」の「問題」はquestionの意味ですが、『私のいない高校』はナタリーという他者を受け入れることで、時間割、テスト、成績、制服、部活動、修学旅行、身だしなみ検査、座席表、掃除係、バス移動の最中に上映される映画の選択…学校を構成するありとあらゆる要素が何でも問題=problemになっていくそのプロセスが描かれた小説なのです。(余談ですが、一つの単語に複数の意味や文脈を付与するのは青木淳悟がよく用いる手法だと思います。『私のいない高校』p.82-p.83の「プライベート」という言葉の使い方や『学校の近くの家』の実際のロケットのニュースとメタファーとしてのロケットに関する記述が接続された部分などが例として挙げられます。)

例えば、修学旅行で訪れた広島城ではもし日本語話者だけで訪れたのであれば「問題」にならなかったであろうし、特に気にもとめないはずのパンフレットが問題になります。

外国人向けのパンフレットは英語のものしか見つからなかった。話では卒業生の児玉杏里は過去に広島へ行った韓国人の友人からポルトガル語の資料をもらっていた。担任は現地に行けば簡単に入手できるものと思っていたところ、結局そこでは収穫がなく、声を掛けた係員もどこにあるか分からないとのことだった。(p.127)

ナタリーが加わることによって担任教師の目にする修学旅行の風景は変容していきます。小説全編を読むとナタリーも教師も生徒も学校もお互いに影響を及ぼしあい、常に変化の過程のさなかにいることが分かります。そして、変化の過程に置かれているのはこの学校のこの教室に限った話ではありません。例えば、修学旅行先の長崎には出島があり、ハウステンボスがあるわけです。

 

文章は南蛮貿易キリシタンの歴史に焦点を当てたものだった。参考資料に「一五三四年、中国船に乗ったポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える」から始まる日本史年表と、大航海時代の西欧諸国の勢力関係を示す世界地図とがあった。読み返してみると驚くほどポルトガルのことが出てきた。留学生にとってこの内容は、あるいは郷愁を感じさせるものになるかも知れなかった。(p.98)

そして、これが最も興味深い部分だったが、カステラ、コンペイトー、パン、テンプラ、バッテラ、カルタ、シャボン、オルガンと、「日本語になったポルトガル語」が列挙してあった。(p.99)

 

要するに日本社会も日本語もこの学校と同じように他者に浸食されていくプロセスのただ中にあるわけです。青木淳悟との対談で阿部和重は次のように言います。

 

つまりそもそも、日本史とはそういうものだったわけですね。船来のもの、異文化・異分子を内側に取り込んできた結果として成立しているのが今の日本社会、日本文化だともいえるわけで、その過程そのものを二百数十ページを費やして物語化したのが『私のいない高校』だと読める。だから、形式化してしまった歴史と同時に、その歴史がどのように形式化していくのかという運動を、高校の教務日誌の二次創作という形を借りつつ描き切ったのが、青木淳悟の『私のいない高校』であるというのが僕の読解です。いかがですか?

この小説を読むと、朝起きてパンとコーヒーを胃に流し込んでスーツを来て電車に乗って会社や学校に出かけていくわたしたちの日常が歴史の過程にあり、人間が他者と影響を及ぼしながら作った極めて不確かな均衡の上に成り立っていることを感じたりもします。

さて、『私のいない高校』は他者としてのナタリーとそれを取り囲む学校の人たちの変容と単純に言ってしまうことはできません。小説の終盤10ページ以上に渡ってナタリーが登場しなくなります。代わりに描かれるのは今年から共学になったこの学校の一年生男子のサッカー部やリーダー部設立運動の盛り上がりであり、つまり彼らもまた、学校を変容させる他者ということになります。それだけではありません。この学校の校長サラ・リンデンは今年、外部から赴任してきたと説明されているのだから、ナタリーが他者なら男子生徒や校長もまた他者と言えます。何気ない、何度と繰り返される修学旅行の風景が描かれているようにも思えますが、リンデン校長の赴任もあって来年から修学旅行は海外になるかもしれないと書かれているのだから、この学校の生徒が広島・長崎に修学旅行に行くのだって最後かも知れません。

この小説がときに不気味と言われるのは当たり前で確かな日常を不気味な文体で書いたからではなく、日常と呼ばれるものが常に潜在的に変容の可能性を秘めている不気味な均衡の上を綱渡りしていることを晒してしまうような力があるからだと思います。先ほど、「朝起きてパンとコーヒーを胃に流し込んでスーツを来て電車に乗って会社や学校に出かけていくわたしたちの日常」と書いたのですが、コロナ後の世界を生きるわたしたちはそれがウイルス一つで「新しい日常(ニューノーマル)」なんてものを押し付けられる「日常」であることを知っています。

もうそろそろ長々と続くお喋りを終えたいと思っています。最後にこの小説がどのようにして終わるか覚えているでしょうか?この小説は登場する全ての人物の名前が列挙されて終わります。生徒や学校関係者のみならず、小野伸二紫式部も含まれています。『私のいない高校』では教室という空間が作中に一度しか登場しない人物やさらには小野伸二紫式部も含めた数え切れない人間たちのまなざしが浸食しあった先の光景として描かれていて、だからこそ、読了後もう一度『私のいない高校』の教室の風景を読み直したくなるし、この小説が「欠如」の小説だとは思わないわけです。『私のいない高校』はわたしたちを取り囲むあれこれの空間に目を凝らして、時には他者の視線をもって見つめたい、そう思わせる小説だと考えています。