言い訳:書評について

ブログやネットに書かれた本に対する書評なり、感想なりを読むとうーん、何だかそういうことなのかなあって思うことはしょっちゅうです。個人の感じたことを自由に書けばいいし、誰だってそう認識しているはずなのに、気づけばどの本でも誰が読んでも似たような文章で、つまるところ紋切り型だということであり、言葉を変えて言うのなら既に存在している型に“私”なり“○○という作品”なりを代入しているように思えてはならないわけです。もちろん、それは本に限った話ではなく。最近、大名行列にも似た身振りで社会を大手を振って歩いている“推し”という言葉に、個人的にはいけ好かねぇ奴だなと視線を送ってみたりするのも、“推し”が尊いとか生きがいみたいなのにつながる関係性の記号であって、一方に、“私”や“俺”や“あてぃし”や“おいどん”を入力してもう一方に、“アイドル”や“深夜ラジオ”や“本”が入力されて式がいっちょ出来上がり、「はい、素晴らしいでしょ」みたいになっていて、わたしが返す言葉は「ええ、素晴らしいですね」に決まっているわけです。書くことや語ることは誰にも認められた民主主義的なものであっても、主観とかわたしだけの感性は信用出来ないと少なくともこの数年はずっと思感じています。書評の類は個性を控えることを意識した方が結果としてユニークなものになるんじゃないかとかそんなことを考えていた時期もあったと思います。しかし、次のような文章を読むと気も変わってきます。

 

私は最近は小説というのは感触を呼び起こすか、今ここであらたに感触を作り出すかするための形態であると感じている。(保坂和志 『ハレルヤ』あとがき)

 

思考は生き物だから常にあちこちに向かって蠢いていて、それがもうずっと前に自分や他人が考えたことの反復であることがほとんどです。極私的なことを書いていってその連鎖の果てに、わたしと本が組み合わさってできた機械が生成する未知の風景が広がっていたらいいなと思うのですが、それは理想論でもあり、試行錯誤の過程でもあり、言い訳でもあります。

「何でも問題になる」—青木淳悟『私のいない高校』について

自分が卒業文集にどんな文章を書いたか覚えていますか?わたしは高校では卒業文集がなかったのですが、中学生の時にああでもないこうでもないと苦心して最終的には半ば投げやりになって書いた文章が今でもふがいなさを宿しながら本棚の端に席を占めています。なぜ、自分の学生生活を文章化することがままならなかったかと言えば、例えば他の人の文章を読むと、陸上部で走り高跳びに情熱を注いだ彼女は最後の大会の背面跳びで見上げた雲一つない大空と続いて自分の耳に響く落ちてしまったバーの音に学校生活の思い出を託し、将来は社会の役に立つ人間になりたいという彼は最初はトラブル続きで苦労したものの最後は班のみんなで楽しむことの出来た修学旅行での学びを活かしていきたいと意気込んでいるわけで、ぼーっと生きているわたしにはそのような特権的瞬間はどうやら訪れなくて、あるいは見過ごしていて、その代わりという訳でもないのですが、放課後の部活の練習をさぼって教室で友人とだらだら喋っていたら、そこに同じく部活をさぼったサッカー部の男子たちが合流して、さらには委員会があったというあまり話したことがなかった女の子も教室を訪れて、その変な取り合わせのメンバーで他愛ない話をしていたら楽しくて気づいたら最終下校時間だったときの夕暮れの教室の風景とか、とにかく退屈だった地理の授業でクラスのみんなが睡魔と闘いながらもノート点検があるからと言って何とか黒板を写そうとする姿(その冬、地理教師は窓を開け冷気で生徒を寝させないようにして反感を買った)とか、別にそんなことする必要なんて一つもないのに新しく出来た友達と時間を合わせて毎朝一緒に登校した一時期とか、挙げればきりのないほどの取るに足らないような瞬間にこそわたしの学生生活があったような気がしてそういった一つ一つを描写したかったのですが、力量も文字数も全く足りなかったのです。

わたしが卒業文集で残したかったのは、学校生活の思い出や学びというよりは、教室や登下校や友人や教師にわたしが向けたまなざしだったのではないか、そのようなことを最近は考えたりもするわけです。そして、卒業文集を通して書くことの難しさと全身で向き合っていたであろうわたしに『私のいない高校』を手渡しやりたくもなってきます。それは、決して卒業文集の執筆に役立つということではありません。『私のいない高校』は教室の風景が沢山のそこにいる人たちやかつていた人たちのまなざしで構成された不安定な均衡のうえに存在する様が描かれていて、もう一度教室という空間を隅々まで眺めたいと思わせてくれるような作品なのです。

『私のいない高校』は実在の日誌(『アンネの日記 海外留学生受け入れ日記』)に依りながら書かれた小説で、ポルトガル語話者のカナダ人留学生ナタリーを受け入れた二年菊組の日々が一人称や視点人物を排除した文章で綴られています。この小説の特徴についてブログやレビューでは物語や主人公の不在が指摘されがちですが、わたしは実験性や既存の文学へのアンチテーゼといった評価につながるであろうそうした描かれていない欠如よりもこの小説に描かれているものに惹かれています。

上手に日本語を操る訳ではないナタリーのために、担任は教室に貼られた時間割とにらめっこをしながら、ナタリーの個別の時間割を考えます。もちろん、テストも個別の対応をしなくてはなりません。そこで担任はナタリーも参加した修学旅行をもとに「スクールトリップ」というテスト科目を設けることにします。以下はその様子に関する描写です。

温東先生とは家庭科の打ち合わせをするうち、いつしか修学旅行テストについての相談になっていた。そこでのやりとりから、例えば、旅行中の食事内容だとか部屋の様子についてだとか「何でも問題になる」として、当初担任の想定していた「旅行を通して地理や歴史を取り上げる」との出題案に色々といいアイデアがプラスされていった。(p.180)

ここでの「何でも問題になる」の「問題」はquestionの意味ですが、『私のいない高校』はナタリーという他者を受け入れることで、時間割、テスト、成績、制服、部活動、修学旅行、身だしなみ検査、座席表、掃除係、バス移動の最中に上映される映画の選択…学校を構成するありとあらゆる要素が何でも問題=problemになっていくそのプロセスが描かれた小説なのです。(余談ですが、一つの単語に複数の意味や文脈を付与するのは青木淳悟がよく用いる手法だと思います。『私のいない高校』p.82-p.83の「プライベート」という言葉の使い方や『学校の近くの家』の実際のロケットのニュースとメタファーとしてのロケットに関する記述が接続された部分などが例として挙げられます。)

例えば、修学旅行で訪れた広島城ではもし日本語話者だけで訪れたのであれば「問題」にならなかったであろうし、特に気にもとめないはずのパンフレットが問題になります。

外国人向けのパンフレットは英語のものしか見つからなかった。話では卒業生の児玉杏里は過去に広島へ行った韓国人の友人からポルトガル語の資料をもらっていた。担任は現地に行けば簡単に入手できるものと思っていたところ、結局そこでは収穫がなく、声を掛けた係員もどこにあるか分からないとのことだった。(p.127)

ナタリーが加わることによって担任教師の目にする修学旅行の風景は変容していきます。小説全編を読むとナタリーも教師も生徒も学校もお互いに影響を及ぼしあい、常に変化の過程のさなかにいることが分かります。そして、変化の過程に置かれているのはこの学校のこの教室に限った話ではありません。例えば、修学旅行先の長崎には出島があり、ハウステンボスがあるわけです。

 

文章は南蛮貿易キリシタンの歴史に焦点を当てたものだった。参考資料に「一五三四年、中国船に乗ったポルトガル人が種子島に鉄砲を伝える」から始まる日本史年表と、大航海時代の西欧諸国の勢力関係を示す世界地図とがあった。読み返してみると驚くほどポルトガルのことが出てきた。留学生にとってこの内容は、あるいは郷愁を感じさせるものになるかも知れなかった。(p.98)

そして、これが最も興味深い部分だったが、カステラ、コンペイトー、パン、テンプラ、バッテラ、カルタ、シャボン、オルガンと、「日本語になったポルトガル語」が列挙してあった。(p.99)

 

要するに日本社会も日本語もこの学校と同じように他者に浸食されていくプロセスのただ中にあるわけです。青木淳悟との対談で阿部和重は次のように言います。

 

つまりそもそも、日本史とはそういうものだったわけですね。船来のもの、異文化・異分子を内側に取り込んできた結果として成立しているのが今の日本社会、日本文化だともいえるわけで、その過程そのものを二百数十ページを費やして物語化したのが『私のいない高校』だと読める。だから、形式化してしまった歴史と同時に、その歴史がどのように形式化していくのかという運動を、高校の教務日誌の二次創作という形を借りつつ描き切ったのが、青木淳悟の『私のいない高校』であるというのが僕の読解です。いかがですか?

この小説を読むと、朝起きてパンとコーヒーを胃に流し込んでスーツを来て電車に乗って会社や学校に出かけていくわたしたちの日常が歴史の過程にあり、人間が他者と影響を及ぼしながら作った極めて不確かな均衡の上に成り立っていることを感じたりもします。

さて、『私のいない高校』は他者としてのナタリーとそれを取り囲む学校の人たちの変容と単純に言ってしまうことはできません。小説の終盤10ページ以上に渡ってナタリーが登場しなくなります。代わりに描かれるのは今年から共学になったこの学校の一年生男子のサッカー部やリーダー部設立運動の盛り上がりであり、つまり彼らもまた、学校を変容させる他者ということになります。それだけではありません。この学校の校長サラ・リンデンは今年、外部から赴任してきたと説明されているのだから、ナタリーが他者なら男子生徒や校長もまた他者と言えます。何気ない、何度と繰り返される修学旅行の風景が描かれているようにも思えますが、リンデン校長の赴任もあって来年から修学旅行は海外になるかもしれないと書かれているのだから、この学校の生徒が広島・長崎に修学旅行に行くのだって最後かも知れません。

この小説がときに不気味と言われるのは当たり前で確かな日常を不気味な文体で書いたからではなく、日常と呼ばれるものが常に潜在的に変容の可能性を秘めている不気味な均衡の上を綱渡りしていることを晒してしまうような力があるからだと思います。先ほど、「朝起きてパンとコーヒーを胃に流し込んでスーツを来て電車に乗って会社や学校に出かけていくわたしたちの日常」と書いたのですが、コロナ後の世界を生きるわたしたちはそれがウイルス一つで「新しい日常(ニューノーマル)」なんてものを押し付けられる「日常」であることを知っています。

もうそろそろ長々と続くお喋りを終えたいと思っています。最後にこの小説がどのようにして終わるか覚えているでしょうか?この小説は登場する全ての人物の名前が列挙されて終わります。生徒や学校関係者のみならず、小野伸二紫式部も含まれています。『私のいない高校』では教室という空間が作中に一度しか登場しない人物やさらには小野伸二紫式部も含めた数え切れない人間たちのまなざしが浸食しあった先の光景として描かれていて、だからこそ、読了後もう一度『私のいない高校』の教室の風景を読み直したくなるし、この小説が「欠如」の小説だとは思わないわけです。『私のいない高校』はわたしたちを取り囲むあれこれの空間に目を凝らして、時には他者の視線をもって見つめたい、そう思わせる小説だと考えています。

 

 

メモ:『瓦礫の天使たち ベンヤミンから<映画>の見果てぬ夢へ』

ここに綴られる文章は公開されてはいても、わたし以外が読んでも特に面白味はないと思うし、わたしにしたって未来に読み返したところで、かつて自分の頭の中にこうした考えが星雲のように広がっていたことを懐かしむことぐらいしか出来ないと思うわけです。読書記録を残してみようとこうして文章を綴っているのは、例えば、ドラマのラストシ―ンで町に別れを告げた彼/彼女の乗る電車が動き出したとき、そこへ別の彼/彼女がやってきてホームもしくは線路沿いを息を切らしながら電車と並走して、当然二人の距離はみるみると広がっていくのだけれど、その刹那に二人の視線が合って、ささやかだけれどわたしたちの生をいつかの遠い日まで含めて祝福してくれような恩寵の時間が訪れたことを確かめあうかのように本との幸福な並走の瞬間が自分の身に訪れるのを夢見てとりあえず息を切らして走る身振りだけは練習しておきたいからです。

 

 

映画だけに、それは可能なはずだった。何が?ベンヤミンゴダールと著者の中村秀之が映画の可能性を信じるなら、安全さや快適さとは無縁の場所におかれた過酷な<見る>という身振りの中においてでしかありえない。ゴダールは言う。映画は見せる能力を追及してきた。映画の力は見せることにあり、それに対して観客がなすべきことは見ることにある。しかし、トーキー以後、見せることより話すことに重きが置かれ、観客やテレビの視聴者は自分の目で見るのではなく聞いて話す存在となった。

そして映画を見るということはただ単に、映画を見、あとでそれについて語るということではなく、おそらくは、見るすべを知るということなのです

ゴダール『映画史』)

 

ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で模倣を「仮象」と「遊動」の二つに分け、映画に巨大な遊動空間としての力能を見出す。遊動は創意工夫によって新たな運動を生む可能性を秘めている。映画は巨大な遊動空間であり、第二の技術の練習の場であり、気散じ=主体の危機さえ含意するような実践の場でもある。そこにあるのは、「今日の機械」の仮象的模倣ではなく、「狂った機械」の創造(ドゥルーズ=ガタリ的)であり、ジャンルを超えてその作用を波及させる力が<見る>ことにはある。「情報化社会」などと呼ばれもするこの社会の「メディア」や「コミュニケーション」のヘゲモニー服従せず、歴史(=物語)の連続性を吹き飛ばし、「進歩」の嵐に抗うような身振りとしての<見る>とき(例えば無声映画ゴダールストローブ=ユイレの映画を)、観客は(反=観客)はおそらくは瓦礫に視線を注ぐ「新しい天使」にも似た存在となるだろう。

 

ベンヤミンが映画と都市の照応関係を問題にするのは問題にするのは、商品世界の魔術幻灯が想像的に上演される劇場としてではなく、身体と機械の組み合わせによって生じるポテンシャルが物質的に現動化される一種の工場としてなのである。第四章でアン・フリードバーグの論考が批判的に俎上に載せられるのは、この二つの差異に対する鈍感さゆえだろう。例えば、遊歩者の経験は「土地の守護霊」との身体的交感であり、「追憶としての陶酔」であるが、それは今ここの離脱や想像的な彷徨ではなく、今ここが二重化するという経験なのだ。果たして遊歩者と女性買い物客は=で結び付けられるものなのだろうか。

遊歩の際に、空間的にも時間的にも遥か遠くのものが、いかに今の風景と瞬間の中に侵入してくるかは、知られている通りである。

ベンヤミン

 

そして、キング・ヴィダーの『群衆』、ドゥルーズ=ガタリにならって言うなら、機械状隷属者のジョン(危うい不安定な主体化)と社会的服従者のバート(距離をとった主体化)、当然バートが勝者となる。しかし、『群衆』というフィルムはそうした説話にとどまるものではない。<広告の言説>を体現する人物=形象を創造するとともに、ささやかであれその決定的な破綻を結末で提示する。『群衆』はどのような結末だったか?<操り人形>から<自動人形>(自己の存在を享楽する者)へと生成変化したジョンとメアリーの踊り、そして笑い...

以下メモ

しかし、この瞬間を美しいとか幸福なものだなどと誤解しないようにしよう。それは都市がその表象性を失い端的に流れであることを剝き出しにする瞬間、いわば都市の野生が露呈する残酷な瞬間であるかもしれないからだ。

 

 

ベンヤミンは観想/気散じという鑑賞態度をそれぞれ視覚的/触覚的と振り分けた。

 

「触覚」とは時間を含み、多次元であり、何よりも経験であり、かつ再現のできないものなのである。

多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』)

 

ムルナウの『サンライズ』の牛(覚えていない)

 

バラ―ジュの言う「直接に形象となった魂」あるいは「可視的な人間」とは、むしろある種の非人間的なものへの生成、物質化なのではないか。

どこまでも人間はコミュニケーションそのものに対して受動的=受難的でしかありえないのだ(北田暁大)。

映画の力は見せることにあり、それに対して観客がなすべきことは見ることにある。