メモ:『瓦礫の天使たち ベンヤミンから<映画>の見果てぬ夢へ』

ここに綴られる文章は公開されてはいても、わたし以外が読んでも特に面白味はないと思うし、わたしにしたって未来に読み返したところで、かつて自分の頭の中にこうした考えが星雲のように広がっていたことを懐かしむことぐらいしか出来ないと思うわけです。読書記録を残してみようとこうして文章を綴っているのは、例えば、ドラマのラストシ―ンで町に別れを告げた彼/彼女の乗る電車が動き出したとき、そこへ別の彼/彼女がやってきてホームもしくは線路沿いを息を切らしながら電車と並走して、当然二人の距離はみるみると広がっていくのだけれど、その刹那に二人の視線が合って、ささやかだけれどわたしたちの生をいつかの遠い日まで含めて祝福してくれような恩寵の時間が訪れたことを確かめあうかのように本との幸福な並走の瞬間が自分の身に訪れるのを夢見てとりあえず息を切らして走る身振りだけは練習しておきたいからです。

 

 

映画だけに、それは可能なはずだった。何が?ベンヤミンゴダールと著者の中村秀之が映画の可能性を信じるなら、安全さや快適さとは無縁の場所におかれた過酷な<見る>という身振りの中においてでしかありえない。ゴダールは言う。映画は見せる能力を追及してきた。映画の力は見せることにあり、それに対して観客がなすべきことは見ることにある。しかし、トーキー以後、見せることより話すことに重きが置かれ、観客やテレビの視聴者は自分の目で見るのではなく聞いて話す存在となった。

そして映画を見るということはただ単に、映画を見、あとでそれについて語るということではなく、おそらくは、見るすべを知るということなのです

ゴダール『映画史』)

 

ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で模倣を「仮象」と「遊動」の二つに分け、映画に巨大な遊動空間としての力能を見出す。遊動は創意工夫によって新たな運動を生む可能性を秘めている。映画は巨大な遊動空間であり、第二の技術の練習の場であり、気散じ=主体の危機さえ含意するような実践の場でもある。そこにあるのは、「今日の機械」の仮象的模倣ではなく、「狂った機械」の創造(ドゥルーズ=ガタリ的)であり、ジャンルを超えてその作用を波及させる力が<見る>ことにはある。「情報化社会」などと呼ばれもするこの社会の「メディア」や「コミュニケーション」のヘゲモニー服従せず、歴史(=物語)の連続性を吹き飛ばし、「進歩」の嵐に抗うような身振りとしての<見る>とき(例えば無声映画ゴダールストローブ=ユイレの映画を)、観客は(反=観客)はおそらくは瓦礫に視線を注ぐ「新しい天使」にも似た存在となるだろう。

 

ベンヤミンが映画と都市の照応関係を問題にするのは問題にするのは、商品世界の魔術幻灯が想像的に上演される劇場としてではなく、身体と機械の組み合わせによって生じるポテンシャルが物質的に現動化される一種の工場としてなのである。第四章でアン・フリードバーグの論考が批判的に俎上に載せられるのは、この二つの差異に対する鈍感さゆえだろう。例えば、遊歩者の経験は「土地の守護霊」との身体的交感であり、「追憶としての陶酔」であるが、それは今ここの離脱や想像的な彷徨ではなく、今ここが二重化するという経験なのだ。果たして遊歩者と女性買い物客は=で結び付けられるものなのだろうか。

遊歩の際に、空間的にも時間的にも遥か遠くのものが、いかに今の風景と瞬間の中に侵入してくるかは、知られている通りである。

ベンヤミン

 

そして、キング・ヴィダーの『群衆』、ドゥルーズ=ガタリにならって言うなら、機械状隷属者のジョン(危うい不安定な主体化)と社会的服従者のバート(距離をとった主体化)、当然バートが勝者となる。しかし、『群衆』というフィルムはそうした説話にとどまるものではない。<広告の言説>を体現する人物=形象を創造するとともに、ささやかであれその決定的な破綻を結末で提示する。『群衆』はどのような結末だったか?<操り人形>から<自動人形>(自己の存在を享楽する者)へと生成変化したジョンとメアリーの踊り、そして笑い...

以下メモ

しかし、この瞬間を美しいとか幸福なものだなどと誤解しないようにしよう。それは都市がその表象性を失い端的に流れであることを剝き出しにする瞬間、いわば都市の野生が露呈する残酷な瞬間であるかもしれないからだ。

 

 

ベンヤミンは観想/気散じという鑑賞態度をそれぞれ視覚的/触覚的と振り分けた。

 

「触覚」とは時間を含み、多次元であり、何よりも経験であり、かつ再現のできないものなのである。

多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』)

 

ムルナウの『サンライズ』の牛(覚えていない)

 

バラ―ジュの言う「直接に形象となった魂」あるいは「可視的な人間」とは、むしろある種の非人間的なものへの生成、物質化なのではないか。

どこまでも人間はコミュニケーションそのものに対して受動的=受難的でしかありえないのだ(北田暁大)。

映画の力は見せることにあり、それに対して観客がなすべきことは見ることにある。